勉強と理解の概念。
そういう訳で、今週もまた怒涛の勢いで過ぎたのですが。
最近、28才くらいん時の情熱が再発掘されまして、
これこそが、私が生きていたいと思うポイントなんだと痛感したのは
全て8月に起きた事がキッカケ。
それでしばらく感じていた
「やり尽くした感」から脱出したようでして、
日々情熱というエンジンで動いとります。
私の情熱は「教育という意識の改善」で。
…って「改善」なんて、おこがましいのは
重々承知の上なんだけど。
世の中「勉強」と言うと
先生がいて、何か指示される事を想像するようで、
以前、仕事で とある人に「勉強がしたい」と言ったら
「職場は勉強するところじゃありません」と責められまして。
どうやら、いちいち私の「勉強」の意味を解説しないといけない
世の中のようだと気付いた次第(笑)
さらに先日は違う人に関して、あらら…と思いました。
例えて言うなら、TVのスイッチをON/OFFしたり、
チャンネル変えたり出来るだけの人が
TVの内部の仕組みを全く知らないのに
「私はTVを操作できるのだから、TVの事はよく理解している」
と言って、鼻高々でした。
…すいません、正直、その時、
全速力で「それは理解ではない」と横から突っ込みたい気分でした(笑)
というか、世の中と私の「理解」の概念が違うのかな…と思ったり。
で、じゃあ、私は何かを理解しているのかって?
いや、全く理解していません。(キッパリ)
恐れ多くて、理解しているなんて、気軽に言えません(笑)
些細な知識や経験を仕入れたところで、
威張ってる場合じゃありません。
まだまだ根本は深くて、勉強…いや、研究をしなきゃいけない事が山積みです。
人生もプログラムも、日常的なこと、例えば料理とかも。
そして、それらを人や本から「教えてもらう」だけでは
本当の「理解」にはならないし、
なんでも個々人の物事の捉え方次第で、
つまり、本の著者や教えてくれる人の考えで、
情報は善にも悪にも聞こえるのだから
自らが体験して、自分の答えを見つけに行かないとね。
そうじゃないと、何かに洗脳され
いつか自分を見失って利用されるよ。気をつけて。